sendai311

大震災の日に生まれて

2011年3月11日、14時46分。
三陸沖を震源とする東日本大震災が発生。
東北・関東一帯を激震が襲いました。

大勢の尊い命を失ったこの日
私たち“らしく”メンバーのひとり
戯書家・伊藤みゑが
震災直後の混乱のなか
宮城県仙台市で新たな命を産み出しました。

まだ小さく弱々しいけれど
ギュッと強く握りしめられたこぶし。
その中にあるのは
ニッポンを「継ぐ」チカラ。

子どもの存在が
現在も未来も
ニッポンを元気にする。

忘れられない日に誕生した命。
生まれてきてくれて、アリガトウ!

予定日より約1カ月も早い3月11日に、帰省していた仙台市で女の子を出産した、“らしく”メンバーの戯書家・伊藤みゑ。被災地の悲惨な光景が連日報道される中、3月11日に出産し母子共に無事でいてくれたことは、私たちにとって唯一明るいニュースでした。
出産当時の話、生まれてきた子どもへの想いを彼女に聞きました。

出産のため、彼女が東京から実家のある宮城県仙台市青葉区に帰省したのは2月17日でした。出産予定日は4月5日。ご主人が仙台に来て一泊し、「予定日前にはまた来るね」と約束して帰京したのは3月9日のこと。その2日後に東日本大震災が起きました。

3月11日 明け方、病院へ

3月11日午前4時30分に破水。お母さんと二番目のお姉さんと一緒に、実家から車で7分程のところにある同じ青葉区内の病院へ向かいました。
そして迎えた14時46分。陣痛の弱いときで、一番上のお姉さんに付き添ってもらってお手洗いに行っていたところへ地震が起き、揺れが静まるまで二人で抱き合っていたそう。「今だから笑い話になるけれど、それ以来、姉は実家で“トイレの神様”と呼ばれています(笑)。もしあのとき一人だったらと思うと…怖い怖い」。
地震直後の忘れられない出来事のひとつで、こんなことも話してくれました。「産後は母子別室の病院だったので、震災前に出産したママさんたちは、顔面蒼白で『アタシの赤ちゃんはっ!!』と叫ぶ声が響き渡っていたのが印象的だった。幸いにも病院内の皆、無事だったのでなによりでした」。

18時24分 女の子を出産

それからだんだん陣痛の間隔が短くなり、出産が近づき分娩室へ。停電のため懐中電灯の灯りの中での出産となりました。初産だったので知識も経験もないのが功を奏したのか、すべて病院の方々の言われるがままにしていて、地震よりもお産に集中できて自分でも驚くほど冷静なお産だったそう。
その冷静っぷりを表すエピソードが、生まれた赤ちゃんを見せられたときのこと。皆たいてい感動の涙を流すと聞いていたので自分もそうだろうと思っていたら、想像していたよりも赤ちゃんが小さかったため、感動の涙はどこへやら、「ちっちゃ!!」と思わず言ってしまったというから、我が道を行き飄々としている彼女らしい。


1週間の入院 相次ぐ余震

産後は、3月18日に退院するまで赤ちゃんと同じ病室で過ごしました。看護士さんによると、それまではあまり忙しくなかったのに、震災以降、病院では毎日出産が続いたそう。
停電していた電気は震災2日後の夜に復旧。一気にパパパパッ! と電気が点きまるでイルミネーションのようで、看護士さん達はよほど嬉しかったのか、病室まで歓声が聞こえたといいます。
「看護士さん達も自身の家族の安否を確認できていなかったりする中、余震の度に安否確認に病室を回ったり、停電で暖房が効かないので、体温調節のできない赤ちゃんをずっと抱っこしていたり、休日だっただろう看護士さんも出勤したり、食料を調達したりと、働いている姿はまるでナイチンゲールのように思えました」。
病院は昔ながらの個人病院で、病室のテレビはまだアナログ。電気が復旧したとはいえ、電波障害もあったのか画像が荒く、地震の被害など、どんな状況にあるのか入院中はよくわかりませんでした。
余震も多い中で、同室で過ごす赤ちゃんとの慣れない時間と、節電で暗い室内。周りの状況よりも、「目の前の赤ちゃんを守らなきゃ! って必死でした」。
担当してくれた先生からは、「一生忘れません」と言われたそう。生まれてくる赤ちゃんに何かあったら、すぐ搬送できるようにしておこうと病院が体制を整えていたことを知らされたのは、産後、落ち着いてからでした。

産後1週間自転車でお風呂へ

実家は食器の破損のみで、水道は被害がなく、停電していた電気も病院と同じく震災から2日目には復旧していました。一番の被害はガスでした。仙台市内でも復旧の最後の方の地域だったので、1カ月以上かかりました。毎朝、新聞とインターネット上で発表される「ガス開栓予定地区」を見ては、まるで合格発表のときのような緊張感を1カ月間味わい、「また落ちた…」と、家族で落胆していたそう。
入院している間、病院のガスも復旧しなかったので、産後のお風呂はもちろん、赤ちゃんも拭く程度しかできなかったけれど、蒸しタオルを毎日配って頂いたのがありがたかったといいます。退院後は、産後ということもありお風呂に入りたかったので、自転車で10分程のオール電化の友人の家にお風呂をもらいに行きました。産後1週間で自転車に乗るなんて、誰に話してもビックリされるけれど本人はまったく問題なく元気で、これも今では笑い話のひとつになっています。

ようやく安堵できたご主人との再会

産後に初めてご主人と話せたのは震災から2日後の夜。震災後、電話がまだ繋がりやすかった一瞬の隙に家族がご主人に無事を知らせてくれ、出産後も無事を知らせてくれていました。互いに連絡を取ったのは電気の復旧とともに携帯電話の充電を開始してから。「出産のときは泣かなかったのに、さすがにこのときは声を震わせました。あの安堵感ったらなかった」。
会えたのは、道路事情も落ち着いた3月29日。埼玉の義父母と共に自家用車で救援物資を積んできてくれました。宿泊するところもなかったので、3時間程の滞在ですぐに戻っていき、「感動の再会とはいかなかったけれど、やはり顔をあわせて安堵したのは覚えてます」。

命名「さな」その意味は…

建築界のsanaa(サナア)さんより拝借し、ご主人が命名。その後、友人から「サナア」はスワヒリ語で「ART」、親戚からはスペイン語で「元気」「健康」「癒し」という意味だと聞かされ、夫婦で驚嘆したといいます。それからは「『サナア』ってね、芸術って意味なの! 癒しって意味なの!」と、最初からまるで知っていたかのように言っているそう。
予定日より1カ月近くも早い、3月11日に生まれてきたことをどう感じているか聞いてみました。
「産後は、なぜこの日に産まれたんだろう…と考えました。何をそんなに慌てて? と。
震災後、それはそれは沢山の友人知人が安否確認の連絡をくれました。震災の大きさをわかっていなかった私は、無事に出産したことを報告して、ハッとしました。まだ安否の確認ができていない家族がいる人もいるなか私は『産んだぞ産んだぞ♪』と独り舞い上がっていることに気付いて恥ずかしかった…。
それなのに皆は、私に『明るいニュースをありがとう』とか『希望です』『良かった、よかった!』と涙を流してくれたり、温かい言葉をかけてくれました。
それからでしょうか。“皆をしあわせにする子”と言うと恥ずかしいけれど、そう思うようになりました。周りの人々を笑顔にしてくれます。ちょうど1年前に父が亡くなったのもあり、さなは何よりも誰よりも私の家族を笑顔にしてくれました。

両親の想いを継いで 娘・さなへ

伊藤みゑには、大切に胸に留めている言葉があります。出産祝いの言葉として、叔母さんが贈ってくれた短歌です。

「生れ来て
 あまりきびしき世と思ふな
 母が手に持つ花花を見よ
 齋藤 史 作」

「そう育ててもらった気がするし、そう育てたい気がします」と、抱いたさなちゃんを見つめながら話してくれました。さなちゃんを授かったいま改めて、丈夫な身体に産んで育ててくれた両親に感謝しているという彼女。両親が自分に注いでくれた想いを継いで、今度は自分の子どもと関わっていきます。 震災・出産を経た戯書家・伊藤みゑが、今後どんな表現をしていくのかとても楽しみ。


戯書家 伊藤みゑ

  • 1979年・仙台生まれ。桑沢デザイン研究所卒。
  • 制作会社勤務後、書の創作活動を続ける。
  • 2000年~2010年、石川九楊氏に師事。

公開日:2011年07月03日 22:53
Permalink: http://rashiku.jp/sendai311/01_itou.php

トラックバック

トラックバックURL: http://rashiku.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/199

コメント(1)

こんにちは☆うちの娘も3月11日に産まれました。予定日より5日早く、朝から陣痛がおきて午前中に産声をあげました。休む間もなく、地震が起きました。別室に居る、我が子をお産の時に力をいれすぎたのか腕がプルプルの状態でタオルと毛布でいっぱいくるんで避難。病院は古く建物は少し損壊して、水、電気と通ってない状態でした。産後なんで母乳は出なくてミルクは看護婦さんになんとかしてもらいました。場所は、原発から10キロ圏内だったので休む暇もなく強制避難されました。避難してもガス、電気、水道も通ってない。自衛隊による一斉の避難だった為、看護婦さん達とはバラバラになってしまい、ミルクは予備の為に作って持ってきた少量を他の新生児と分けて与えてましたが、すぐに底をつきました。避難避難で、親とも離ればなれになり、旦那とも会えない、連絡もとれない状態で初めての出産と初めての育児に戸惑いました。
なんとか私達は、災害の無い病院に移動でき、旦那と再開出来ました。もう一生会えない、娘を会わす事も出来ないのだろうかと不安でした。「もう一生離れない。どんな時でも必ず3人は一緒」と病院で誓いました。
それからは家に帰れないので、県外に避難して3人幸せに暮

コメントを投稿




既刊情報

  • らしく フリーペーパーvol07
  • らしく フリーペーパーvol06
  • らしく フリーペーパーvol05
  • らしく フリーペーパーvol04
  • らしく フリーペーパーvol03
  • らしく フリーペーパーvol02
  • らしく フリーペーパーvol01
  • らしくの活動をtwitterでフォロー
  • mixiコミュニティ らしく好き!
  • らしくのRSSを購読する